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植木夫妻の家づくり日記 後編 「テレビ台の制作依頼 浪江町からの家族との出会い」

2011年5月9日 8:42 AM カテゴリ: レポート from 現場

4月 テレビ台の制作依頼 浪江町からの家族との出会い

■テレビ台の製作依頼

美郷の家を浪江町の家族の方たちに貸してから2週間近く経ち、やっと福島に行くこととなった。2か月ぶりだ。今回はまず芳賀沼製作を訪ねた。美郷の家にも地デジ対応のテレビをいよいよ設置することにし、取り付けは星さんに、テレビを載せる台は湯田さんに制作してもらうことにしたからだ。そのため、アンテナとテレビは私たちで今月購入した。

それとは別に、芳賀沼製作で、震災後の様子も聞きたかったこともある。最初に社長宅に立ち寄り、久しぶりに社長のお母様に挨拶をした。その後、作業場で湯田さんに会ってテレビ台の大きさを指定した。事務所の方にも挨拶をすませた後、はりゅうウッドスタジオの滑田さんと会った。
滑田さんも忙しそうで、「これから、避難者向けの仮設住宅建築のためにスタジオも協力することになった」とのこと。郡山と三春に4000棟を建設する予定で、これから急いで設計に入るそうだ。家を無くした被災者のためにも頑張ってほしい。
お昼は田島駅前の柏屋で蕎麦を食べて、会津若松に向かった。いつもの味噌を満田屋で購入する。若松市内の道路はなぜか渋滞していた。見ると「いわきナンバー」の車が多く目立つ。会津まで避難された方たちが、慣れない市内で右往左往しているのだろうか。
福島市内に入ってから、4号線沿いの「東京インテリア」でカーペットを購入した。今まで適当なラグマットをリビングに敷いていたのだが、やはりしっかりしたカーペットを敷きたいと先月下見をしていたからだ。
その後、家に向ったのだが、途中、4号線が震災の被害で渋滞となっていて美郷の家に到着したのは夕方5時過ぎになってしまった。車を降りて玄関戸を叩くと、年配の女性が急いで出てきて挨拶をしてくれた。浪江町から来られた高橋さんのご家族だ。
女性は、高橋さんの奥さんのお姉さんで、もう一人出てきた若い男性は、その女性の息子さんだという。高橋夫妻は岳温泉で避難者のために、仕事をしていてまだ帰ってきていなかった。
6時過ぎ、高橋夫妻が帰宅し、初顔合わせの挨拶もかねて簡単な「宴会」となった。田島の酒「國権」を振る舞うと、お酒好きの高橋さんは「これはいい酒だ」と喜んだ。高橋さんのご主人は、浪江町津島地区の農協にお勤め。農機具の部門を担当。その傍ら、12町(36,000坪)もの田んぼで米つくりをしている。奥さんは、役場に勤めで、特に子育て関連の部署で仕事をしている。
現在、浪江町の人々は二本松から福島市内に多く非難してきており、浪江町役場の本部も東和地区に仮の役場が設置されていて、お二人は、毎日多くの避難者が滞在している岳温泉のホテルまで行き、支援を含めた活動をしているとのこと。
私たちを出迎えくれた高橋さんのお姉さんは、佐藤さんといい、ご主人を早くになくされて(享年49歳だったそうです)からは、幼稚園で勤務し、最近定年退職されたという。息子さんも浪江でパソコン関係の会社に勤めていたが、避難勧告を受けて解雇となってしまった。
今回の避難は、津島地区の場合、地震によるものというより原発によるものなので、家の被害はさほどでもなく、時折必要なものは取りに行っているそうだが、それだけに「住めるのに家に戻れない」という、もどかしさがある。12町の田んぼもそのままだ。
それでもまだ、奥さんは役場職員としての仕事があるし、ご主人は大型免許の資格を使って、岳温泉に滞在する「被災者の足」として、送迎の仕事をしているから、まだいい方なのかもしれない。
酒がまわったあたりで、震災や原発などいろいろな話が出た。今回の大地震では、地震や津波による被害もすさまじいが、「原発を抱える地区」ならではの問題が浮き彫りになってきた。
福島原発や女川原発のある地区の自治体には、多額の交付金が入るため、原発のある地区の人々の生活水準は他の地区よりも高い。だから自治体の合併の話が持ち上がっても、この交付金の受益のうまみがなくなるので、絶対「NO!」として言ってきた。
ここ数年、福島のほかの市町村が合併するなかで、原発付近の、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町などの自治体はそのままなのも、そういった理由なのだろう。
しかし、今回の地震でこの地域の人たちは、一気に地獄に落とされた。特に沿岸部では津波による被害と原発による避難勧告で、復興はおろか遺体の捜索もままならない状況だ。
「原発の安全神話」には、以前から専門家からも疑問視されていた。しかし、東電ではそれを隠していた。しかし地元でも原発の危険性には多少は気づいていたのではないかと思う。高橋さんの話によれば、「現場の危険な作業は、外国人労働者が行っていて、その作業員が大量の放射線を浴びて被曝をした時は、原発の施設から外に出さず直接ヘリで青森の専門施設まで搬送する」というのだ。
原発から、時折、ヘリが飛んでいくのを、地元の人たちは見ていたそうだ。その話を聞いただけでも、原発内でかなり危険な作業が行われていたことがわかる。特に今回爆発した第一原発は、出来てから40年も経ち、施設も寿命だったにも関わらず使い続けていた。
その中での原発の事故…。これはあきらかに人災だ。交付金の代償としてはあまりにも酷すぎる。
地震による被害だけならすぐに復興できるが、原発の事故処理と安全確認はいつになるか分からないからだ。
話は少しそれるが、今回の大地震に対する日本人の対応の仕方が、落ち着いていると海外から称賛が寄せられている。確かにひどい災害にも関わらず、ハイチの大地震のようなパニックや物資の略奪のようなことは起きていない。だが、それは今回災害が起きたのが「東北」だったからだともいえる。過酷な状況でも辛抱強くお互いを思いやる東北人の特性だ。これが東京なら必ず「パニック」になっているだろう。
そんな東北・福島をできるだけ支援していきたいと改めて思った。

■高橋さん一家と交流
その夜は、12時頃まで話が続いた。翌朝、高橋夫妻は6時過ぎには岳温泉に出かけた。その日は雨だった。妻は、高橋さんのお姉さんの佐藤さんと2人でひな人形を片づけた。その間、私は、納戸の棚の脇に作業衣などを架けられるような棒を、また2階のベランダの柵に物干し竿を取り付けた。
その間にも、時折余震があった。だが美郷の家は玄関の戸がガタつく程度でほとんど揺れない。やはりこの家はすごいと思った。作業をしていてふと、薪ストーブの煙突の上部がずれているのに気が付いた。急いで写真を撮り、芳賀沼製作に連絡する。


昼前に片づけと作業を終え、昼食とちょっと息抜きドライブということで、佐藤さんとその息子を誘って一緒に出掛けることにした。
蕎麦屋「やまいち」でランチを食べ、道の駅に寄る。その後は、二本松市をドライブしながら、霞ヶ城の桜を見てみた。地震以降、花見どころではなかっただろうから、これも気晴らしだ。雨のせいか人はほとんどいなかった。その後は、ベイシアで夕食の買い物をして、佐藤さんは帰宅した。私たちはその後、地デジ用のテレビを買いに福島市内のヤマダ電気に向かった。
週末のせいか多少市内は渋滞していて、買い物をして戻ったら、もう5時過ぎだった。佐藤さんが夕食の準備をすべてしてくれていて、妻は恐縮していた。
高橋夫妻は昨日と同じ6時過ぎに帰宅。大分お疲れのようだった。10日に美郷に越してから毎日、岳温泉で仕事をしていて休めなかったらしい。その晩は早めに就寝した。翌日、地デジテレビとアンテナをつないで、調整して見れるようにした。また高橋さんのご主人に家のまわりにある薪や物置の中を見せて、時間があったら薪割りをお願いした。そうしているうちに、美郷ガーデンシティの理事長・丹治さんが訪ねてきた。夜の宴会のお誘いもしたのだが、美郷地区総会の準備で忙しかったのか、無理だった。でも気にかけていたようで、わざわざ私たちが帰る前に来てくれたのだった。
世話好きで、物事をはっきり言う頼りになるオヤジさんタイプの方で、話もなかなか面白かった。分譲地の様子やご近所の話もいろいろしてくれた。また、ひとりいい知り合いが増えたといえよう。
私たちがいない間に、地デジのアンテナ設置工事にきた時の対応や留守を、高橋さん家族にお願いして、私たちは美郷の家を後にした。

帰る前に、国分さん宅に寄ってみた。今年は筍が全くだめだったということと、やはり放射線が気になるという話などをした。次回来る時は、アスパラも伸びていることだろう。今年はどうか。多少の不安はあるが、希望を持って、また作業を手伝いにきますと告げて、別れた。

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